刑法のお勉強 第10日

第五章 刑法の理論(つづき)

1 アンシャン・レジームの刑法制度

1、ヨーロッパの近代的刑法思想の礎は、フランス革命以前のアンシャン・レジームの刑法制度に対する批判の中から生まれている。アンシャン・レジーム下における国王の立場は、政治学上の王権神授説によって理論的にその地位を基礎づけ、「神の権威」を背景として全能としての生殺与奪の権限を行使した。

2、人々には、当時の状況をみると、近代的意味での人たるに値する権利・権能は与えられておらず、一般の人民は国王およびその官僚である裁判官の恣意・専断に対してきわめて不安定な地位におかれていたのである。そして啓蒙主義へと変化していく。


2 啓蒙主義の刑法思想

1、啓蒙主義的刑法思想は、刑法制度を「宗教と王権の権威から解放」し、人間の合理的理性によって基礎づけようとしたことである。刑罰権の根拠と限界を社会契約説によって基礎づけることから出発して、その後に、罪刑法定主義、罪刑均衡主義、苛酷な刑の廃止、合理的、目的論的刑罰観を主張してゆく。


※社会契約説を考える

1、社会・国家は、自由で平等な諸個人の契約によって政治社会が成立したとする政治学説である。17~18世紀のイギリス・フランスで、ホッブズ・ロック・ルソーらによって主張されることになる。

2、契約という概念は中世ヨーロッパですでに存在していたが、中世においては「レーン」と呼ばれる期限付きで授与される財貨を意味し、封建領主からその臣下に勤務と誠実を果たすという契約によって与えられていた。これが当時の社会秩序を形成していたというものである。

3、この観念が政治的共同体である、当時の国家の建設に理論的に適用されたのである。これには2つの種類が存在した。

①「本来自由で独立した人民が将来彼らを支配するであろう者と取り交わす」という統治契約なる意味。

②「社会的に独立した存在の人間の結合、あるいは社会の統一を行うために結ぶ」という社会契約なる意味。

4、当時の統治契約は宗教的な契約とつながりをもっていたが、自然法思想の発展により社会契約論が発展していったことにその特徴がある。

【参考】

※ベッカリーアの「犯罪と罪」

1、ベッカリーアの著『犯罪と刑罰』(1764年)には「拷問と死刑」への反対論を主張し、「教育により犯罪を防止すべき」であると説き、ヴォルテールやロシア皇帝エカチェリーナ2世などに賞賛されていることである。

⇒社会政策の思想ではモンテスキューの流れを受けて、ベンサムに影響を与えたと考えられる。哲学的な言語論と文体論であるのが特徴である。


※啓蒙的刑法思想の特色

①国家刑罰権の根拠は社会契約におかれ、アンシャン・レジームの下で刑法が奉仕してきた論理と宗教は刑法から別物のように切り離されて、宗教上ないし道徳上の罪業と刑法上の犯罪とはまったく別個のものとされるようになったことである。

②次に、法律主義という意味の罪刑法定主義、およびその実質的内容を意味する罪刑均衡主義を特色として挙げることができる。

⇒これには、個人の自由・平等の思想は、裁判官に対する徹底した不信感と結びついて、かつ明瞭でしかも裁判官の解釈を必要としない完全無欠な法律の制度を要求することになる。

③刑罰は犯された犯罪に対して、なおかつ比例するものでなければならないという主義が強くなり、しかも罪刑の均衡においてその軽重を決する標準となるものは、もっぱら行為および結果の大小である、という客観主義的なる見解が主張されたのである。

④刑罰に関しては、人道主義的見地から寛刑化の方向が目指されるとともに、応報刑思想を排して、国民一般が犯罪に陥るのを阻止するための一般的予備理論が説かれることになる。⇒これは、啓蒙的刑法思想のもつ合理主義なる意味、そして功利主義、目的主義から考えてみると、容易に理解できる。


3 前記古典学派の刑法理論

※前期古典学派の刑法理論は、18世紀後半から19世紀初頭にかけて形成され、その源流はアンシャン・レジームの刑法制度に対する強い批判として展開された啓蒙主義思想にあるとされる。

【参考】

※18世紀末から19世紀初めにかけてイタリアのベッカリーアやドイツのフォイエルバッハに唱えられた後、社会契約説やカントの思想を受けている。

⇒そして犯罪は社会や権利に対する侵害に応じて、予め法律で定めた規則によって処罰されるべきであるとした(罪刑法定主義)。

※彼らは宗教や王権が、法の規定を越えて刑罰に直接介入することに反対した。また、市民革命当時の理念である、「自由かつ合理的な理性」が期待され、犯罪により得られる利益より、処罰による損失の方が大きければ、人は合理的に判断して犯罪を予防することができる、と言う心理強制による一般予防が期待された。以上の立場(特にフォイエルバッハによるもの)を「前期古典派」と呼んでいる。


※フォイエルバッハ

1、前期古典派の学派というのは、フォイエルバッハが展開した思想のことを言う。フォイエルバッハは、国家の任務を「社会契約説」に基づいて市民の権利の保護に置き、宗教犯罪や風俗犯の犯罪からの削除による刑法の世俗化をはかり、個人の権利を侵害する行為のみを犯罪とするべきであると考える権利侵害説を唱え、犯罪を行為者の意思ではなく、外部的行為と権利侵害で把握するべきものであるとして行為主義、客観主義の立場を取る。

2、また、功利主義的な立場からカントが唱えた「絶対的応報刑論」を否定して、刑法というのは市民一般の犯罪を防止するためのものであるとする目的刑論を主張することになる。フォイエルバッハは、合理精神を持っている人間は犯罪から得らえる利益と犯罪を起こすことで加えられる刑罰という不利益を天秤にかけて、不利益のほうが大きいと判断すれば犯罪を思いとどまる存在であるとしたこと。

3、そのうえで、刑法は刑罰という不利益をあらかじめ告知、警告することで人々に心理的な圧力を加えることによって犯罪を予防することがその目的であるとして、この考え方を「心理強制説」と呼んでいる。


4 後期古典学派の刑法理論

1、それに対し、後期古典派はドイツ帝国が成立した1871年、そいつ帝国刑法典が制定さ

れた後から確立されていった刑事法思想のことをいう。この刑事法思想のひとつの中核には、ビンディングの唱えた「規範違反説」の考え方がある。

2、これは、国家には国民に対して服従を求める権利があり、その相対とも呼べるべき存在が規範であると考え、その規範を侵害あるいは違反するような行為が犯罪であるとしたこと。前期古典派のフォイエルバッハが、個人の権利を侵害する行為が犯罪であると考えたのに対して、国家の権利を侵害したことが犯罪であると考えたこの思想は、この意味において、前期古典派とは全く逆なる考え方であるといえるのである。

3、そしてもうひとつの中核的存在が、意思自由論に基づく、道義的責任論と応報刑論になる。人間には「意思の自由」というものがあり、自由意思に基づいて行った犯罪行為には、当然に「道義的な責任が生まれる」というもので、刑罰というのはその責任に対する応報、非難であると考えたことである。

⇒逆に行為したことに「道義的責任がない」のであれば、刑罰を科すことはできないとする責任主義の原則と刑罰は責任に相応するものでなければならないという「責任と刑罰の均衡」の原則が導かれたとするものである。


※カント

 ・絶対的応報主義=タリオの法(目には目を)。

 ・一般予防・特別予防を否定している。

 ・死刑存置論。

※たとえ「公民的社会がいっさい構成員の協賛を以って解散したにしても、牢獄につながれた最後の殺人犯人はその前に死刑に処せられなければならない」とする言葉に端的に表現されている。


※ヘーゲル

1、ヘーゲル(1770-1831)は、カントと並び称されるドイツ観念論哲学の巨匠であるが、哲学の領域を越えて、刑法思想においても、カント・ヘーゲルの絶対的応報刑論(犯罪の報いとしての刑罰)の主張者であると理解されていること。

2、ヘーゲルによると、「犯罪は法の否定」であり、刑罰は「法の否定の否定」であり、犯人が責任に相当する刑罰の害悪を受けることによって、犯罪は弁証法的に止揚され、侵害された法が回復されるということに特徴がある。

・犯罪は法秩序の否定である。

・相対的応報刑論(刑罰は「侵害の価値に応じた相当性がなければならない」とする。)


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