憲法のお勉強 第6日

5 日本国憲法

(1)日本国憲法公布までの経緯

A 明治憲法発布までの経緯

※明治政府が憲法の制定を急いだ理由は当時の意味において二つあると言われている。

①一つは幕末の時代、治外法権や関税自主権といった不平等条約の改正をするためである。治外法権を撤廃しようにも、憲法も刑法もないのにどうやって犯罪人を裁くのかといわれれば、反論できない現状があったこと。

②二つ目は、明治政府の内紛に破れた板垣退助らによる自由民権運動の高まりがあったこと。

⇒通説では1874年(明治7年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされる。それ以降、薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げ、1890年(明治23年)の帝国議会開設頃まで続いたとされる。

(要するに不平等条約を突き付けてきた欧米の脅威を考えるようになり、その当時の日本の法律を施行する有効性に気がつきだしたことである)


B 明治憲法にみられる特色

①天皇主権

※「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)とされ、憲法は天皇が制定し国民に与えたという形をとった(世にいう欽定憲法である)。そして、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)とされ、のちには天皇の祖先は神であるという天孫降臨伝説によって、天皇の絶対性が補強される。

②天皇に権力が集中していた

※立法・行政・司法の三権分立の形が、すべてのうえで天皇に集中していたという点。

⇒帝国議会は協賛機関とされ、内閣に関する規定はなく、各国務大臣は天皇を助ける存在とされた。また、司法権も天皇の名において行使されている。

※そのほか軍の統帥権や緊急勅令・独立命令など、天皇が議会と相談せずに自由に行使しうる権限(天皇大権)も認められていた。

⇒一番の問題である軍の統帥権が天皇にあったということは、明治憲法最大の欠陥。第二次大戦のときに軍部が暴走したとき、それを止める力は議会にはなかったことである。

③不十分な人権保障規定

※最大の問題は、人権保障がきわめて不十分であったことである。

⇒本来、憲法とは国家権力を制限し、国民の人権を国家権力から守るべきものである。しかし明治憲法は欽定憲法という形をとったため、形だけは国民の人権は「法律で保障される」こととなった。しかし、国民の人権における規定は「法律の範囲内において」しか認められなかった(法律の留保という部分)。その結果、制定手続きさえ整っておれば、議会が悪法を作り人権侵害の主体となりうる悪しき法治主義の弊害も生じたというのが事実である。しかも現在と違って、裁判所には違憲立法審査権というものはなかったのである。

※なぜ無謀な戦争といわれる第二次世界大戦を止めることができなかったのかという部分。そこには明治憲法のもつ構造的な欠陥があったことは間違いない。


C 日本国憲法の公布まで

※第二次世界大戦で日本が戦争に敗れたあと、1945年10月に、当時の国務大臣松本蒸治(まつもとじょうじ)を中心とする「憲法問題調査委員会」が設置された。

⇒しかし、松本案は「国体」の維持が最重要課題とするもので、戦前そのままの保守的なものであったことである。

・これが毎日新聞によって記事が発表され、これを見たマッカーサーは、GHQ(スタッフは通常は約2千人、最盛時には約6千人いた)に憲法改正作業を命じたのである。

⇒草案の作成にあたっては、天皇制の存続・戦争放棄・封建制の撤廃の三原則(いわゆるマッカーサーノート)の指示が出されたされる。弁護士、大学教授、元下院議員などからなる25人のスタッフが選ばれ、彼らは理想に燃え、わずか9日間でマッカーサー草案を作成した。

 これを受け取った日本政府は、多少の字句の修正を加えたうえで、1946年11月3日(明治天皇の誕生日)に日本国憲法として公布し、半年後の5月3日から施行したというのが事実である。


※ポツダム宣言の受諾

・敗戦が濃くなった日本政府ははじめ、米・英・中の3か国によるポツダム宣言を「黙殺」していたが、広島・長崎への連続なる原爆投下やソ連の参戦を経て、8月14日に、第2次世界大戦が終結した。敗戦とともに日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下におかれ、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーに、ポツダム宣言に基づいて占領管理を遂行する全権が与えられた。

・日本政府はポツダム宣言の受諾にあたり、大日本帝国憲法(明治憲法)上の天皇の地位に変更を加えないこと、すなわち「国体護持」を条件にすることを求めた。しかしポツダム宣言は、「平和的傾向を有する責任ある政府の樹立」、「民主主義的傾向の復活強化」、「基本的人権の尊重の確立」という三つの条件を要求しており、これらを受け入れることは、必然的に明治憲法の根本的な改革に道を開くこととなっていくのである。


D 日本国憲法の特色

※日本国憲法において、いちばん大切なことは「なぜこのような規定があるのだろうか」ということを念頭に入れて、よく思考をめぐらし考えることである。

⇒一般に、今ある現実の社会では法に書いてあることと反対の現象が起こっていると見てよい。たとえれば、刑法に殺人罪が規定されているのは、「現実に人を殺す人」がいるからである。

(この殺人、「人を殺すなかれ」これの重要なる言葉に人は真剣に意識したことがあるだろうか)

※脱線したが、同様に、日本国憲法を学んで読むときも、この規定は何を反省して作られたのかを意識して考えるのが重要であるといえる。その際、今の憲法を明治憲法の粗悪さである部分を根本としてみるとよくわかることが多いということを考えてほしい。

・日本国憲法の三大原理である部分は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重の三つであることはよく知られている。ではなぜこのような規定が憲法に盛り込まれたのかということ。

・国民主権は言うまでもなく天皇主権の意味からの反省であり、平和主義は第二次大戦に対する、戦争という愚かさの反省から出来上がった。基本的人権の尊重は、戦前に確実ではなかった人権の保障といういう部分の欠落、これまた当然の規定といえるのである。

⇒それと一番大事な要点は、その憲法に盛り込まれた「不戦国家」という意味合いの存続と、その方向性を世に示し、その愚かさを世に説くことである。


※明治憲法と日本国憲法の比較

①明治憲法

1 天皇主権

2 戦争肯定

3 人権は法律の認める範囲内で保障(法律の留保)

②日本国憲法

1 国民主権である(天皇主権の否定)

2 平和主義(不戦国家という価値の再認識)(第二次世界大戦に対する反省)

3 基本的人権は永久不可侵であること

4 憲法に違反するすべての法律は無効

(前文にある「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する)

※この前文の意味がなぜにあるかを考えることである。

※そして人権保障の在り方は、戦前の法律によって人権を保障するヨーロッパ流のやり方から、憲法によって人権を保障するアメリカ流のやり方へと大きく変化した。

⇒今度は、日本がその国にある尊厳という価値を見せねばならない。


E 日本国憲法の全体の構成

・日本国憲法の全体の構成はどのようになっているという部分。憲法は大きく分けて、基本的人権の保障(第3章)と、国会(第4章)・内閣(第5章)・裁判所(第6章)などの統治機構という二つの柱からなるのが特徴である。

・そして大切なことは、基本的人権と統治機構の関係は基本的人権が目的であり、統治機構は人権を守るための手段であるということである。

※戦争は基本的人権に対する最大の侵害行為であるということ。現代の世界の情勢を見ても、その意味は明らかであり、日本が何をすべきかが問われる。

⇒このように考えるならば平和主義(第2章)も、天皇に関する規定(第1章)も、結局は基本的人権を守るため(世界のへ平和を維持する重要な思考)の規定であるとみなすことができる。


F 日本国憲法の制定

・1946年(昭和21年)11月3日、戦後の新しい憲法である「日本国憲法」が公布された。施行は翌年1947年(昭和22年)5月3日のことである。

⇒憲法公布の式典が、貴族院本会議場で行われた。また、宮城前広場(現在の皇居前広場)で新憲法公布記念祝賀都民大会も行われている。

※なぜに日本がこのような平和を作る道を選んだか。これの要素をよく考えるときであるとわたしは言う。

かいひろし法律の部屋

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