憲法のお勉強 第31日目

思想・良心に自由のつづき

(三)思想・良心の自由の限界

 1、思想・良心の自由の限界として、次の判例等がある。

【判例】

※「レッドパージ事件」

1、思想の自由についての判例としては、まず、昭和25・7・26のマッカーサー最高司令官書簡などを直接の契機として、新聞・報道関係その他の企業から、および後には政府職員・地方公共団体職員から共産主義者およびその同調者を解雇したという、いわゆる「レッド・パージ事件」に関する多くの判例がある。

※まずこれをチェックすると…。

2、これらの事件においては、

直接的には労働基準法第3条が問題となったのではあるが、根本的には思想の自由の問題があったことである。

3、その最初の判決たる福岡地裁小倉支部昭和25・9・9判決は、一般論として、

人がいかなる思想を抱こうとも思想それ自体は絶対に自由であり、また人が純粋に思想を示すこと事態を目的として、すなわち純粋に真理探究のために言論・出版・著作により思想を発表する場合には、これは絶対に自由であって、その限りにおいては公共の福祉を侵すものではなく、結社すること自体も同様である。」としている。

4、従って「公共の福祉を名としてもこれを制御することはできない」と述べているのであり、この一般論は正当であるが、この判決が共産主義の思想については、それを「明白な憲法破壊の企図」の思想であるとし、「この限りにおいては憲法第19条・第21条による保障を援用することはできる」としている点は正当ではないと思われる。

5、判決は共産主義者たる従業員が党の指導の下に、やがては新聞の公共的使命たる報道の真実と自由を害するという危険が推定されるが、故に会社がこれら従業員を解雇することは違憲ではないとしているが、この危険は将来において予測されているにすぎず、これら従業員の具体的行動においてその危険が存在することについては立証されていない、従って、そこでは、これら従業員が共産主義の思想をもっていることそれ自体が解雇の理由とされているといわざるを得ない。

6、これに反して、同じ性質の事件についての大阪高裁昭和29・2・20判決は、単に共産党院またはその同調者であることの一事のみを以って直ちに解雇することは労働基準法第三条・憲法第14条に反して許されないが、しかしこれらの規定は、

その信条に基づく行為によって、労働者が不当にその職場規律を紊乱し、労働能力を低下しまたは作業を阻害して、他人の権利を侵害することまでも許容するものではなく、かかる場合に使用者がこの労働者に対し相当の限度において解雇その他所定の制裁を加え不利益な取扱いをなし得ることは…当然の事理であって、右はいわゆる基本的人権ないし個人の尊厳に何ら反するものではない」とした。

7、またその上告審の最高裁昭和30・11・22判決は、

本件解雇当時の事情の下では、被上告会社が上告人等の言動を現実的な企業破壊的活動と目して、これを解雇の理由としたとしても、これを以って何ら具体的根拠に基づかない単なる抽象的危惧に基づく解雇として強いて非難し得ないものではないというべきである」としている。


※「謝罪広告事件判決」

1、次に、良心の自由が問題となった判例としては、謝罪広告は良心の自由に反するかどうかが争われた事件に対する最高裁昭和31・7・4判決を挙げることができる。

※これも重要な判例であるのでチェックすると…。

2、すなわち名誉毀損に対する救済方法として、裁判所は、民法第723条により被告に謝罪広告を命ずることができ、且つその強制執行は民事訴訟法第733条の代替執行によることができるとされているのであるが、この事件においては、被告は、この謝罪広告を命ずる判決は被告がその良心において正しいと信ずることを国家権力により強制的に訂正せしめることであり、自己の良心に反して謝罪広告を新聞紙に掲載せしめることは憲法第19条に反すると主張した。

※何を言わんかという意味合いでは、

謝罪広告を強制することは、憲法19条の保障する良心の自由を侵害するかという争点である。

3、これに対して判決は、単に自体の真相を告白し陳謝の意を表明するにとどまる程度のものであれば、

上告人に屈辱的もしくは苦役的労苦を科しまた上告人の有する倫理的な意思・良心の自由を侵害することを要求するものと解されない」とした。

4、この事件については、憲法にいう「良心の自由」の保障の及ぶ範囲としては、

各人の信条・主義・世界観・人生観などが問題となる場合に限るべき」であり、単にその意に反する何らかの行為を強制されるという場合は良心の問題ではないと考えるべきであるという意味合いになる。

5、従って謝罪広告の場合でも、その謝罪が何らかの信条・主義などを抱いていたことを非とし、そのことについて謝罪である場合には、「思想・良心の自由」の侵害となる。しかし、この事件の場合はこのような場合には該当しないのである。


※「勤務評定事件判決」

1、県教育委員会が教員の勤務評定について、各教員に学習指導・勤務態度などに関する「自己観察」の記入を求める方式をとったことが、思想・良心の自由を侵すものではないかが争われた事件に関して、

⇒長野地裁昭和39・6・2判決は、

自己評定のためにはその基準としての一定の価値観が必要であるが、

その価値観の全部が憲法第19条の思想および良心にあたるわけではない。」としている

2、同条にいう思想および良心の自由の保障すなわち沈黙の自由の保障の対象は宗教上の信仰に準ずべき世界観・人生観など個人の人格形成の核心をなすものに限られ、

①「一般道徳上、常識上の事物の是非、善悪の判断や一定の目的のための手段、対策としての当不当の判断を含まないと解すべきである」とし、

②「思想および良心の自由に属する価値観に基づかないで教員がその教育活動について自己観察することはもとより可能である」として違憲の主張を斥けている。

3、本件の上告審の最高裁昭和47・11・30判決も、

本件の県教育委員会通達は記入者の世界観・人生観・教育観の表明を命じたものとは解されず、そこで求められている事項は各人の内心的自由に重大なかかわりをもつと認めるべき合理的根拠はない。」と判示したのである。


※「三菱樹脂事件判決」 重要

1、三菱樹脂事件判決も思想の自由に関する重要な判決である。すなわち、企業が社員採用に当たって志願者の思想やそれに関連する事項を調査することが行われているが、この事件は、志願者が在学中において学生運動に参加していた事実などを秘匿して採用されたが、試用期間終了に当たり、本採用を拒否されたという事件である。

2、原審判決は、

このような調査は憲法第19条・第14条に違反し、民法第90条の公序良俗違反に該当するとして無効であるとし、このような不利益を課することは許されない」とした。

3、これに対し、最高裁昭和48・12・12判決は、

学生運動参加の事実の有無についての調査はその者の政治的思想・信条に関係のあるものであることを認めたが、企業が特定の思想・信条の持主の採用をその故を以って拒否することも、企業の自由であり、従ってそのための調査を行うことも違憲ではない」とした。

4、ただし、判決は、

試用期間後の本採用拒否は、ひとたび一定の試用期間を付した雇傭関係に入った者について、その雇傭関係から排除するものであるから、それは「解雇」に当たり、思想の故にもをもって解雇するのであれば、労働基準法第3条の禁止する信条を理由とする「労働条件についての差別的取扱」に該当し、違法であるとし、従って、本件の採用拒否が客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当なものと認められる場合であるかどうかについて、さらに審理すべきである」として、原審に差し戻した。

※これらが覚えるべき重要な判例として記憶すべきかな


二 信教の自由

1、信教の自由は、「自由」の思想において特殊の地位を占めている。

⇒信教の自由への要求は中世における宗教的圧迫に対する反抗から出発し、その後における専制政治に対する闘争においても、宗教上の闘争がその重要な要素の一つをなしていた。

2、宗教の信仰は人間の精神生活の究極に連なる問題であることから、信仰に対する圧迫からの解放のために、人類は多くの殉教の歴史を綴ることともなった。

⇒近代憲法が信教の自由を保障しているのはこのような歴史的な背景からである。


1 明治憲法の信教の自由

1、明治憲法も、「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りに於いて信教の自由を有す」(第二八条)と定め、また、他の各種の自由とは異なり、法律の留保を伴わず、憲法がみずからその保障の限界を定めていた。

2、ただし、この規定から逆に、実際においては、信教の自由の制限は、必ずしも法律によることを必要とせず、安寧秩序を妨げ、臣民の義務に反するとされる場合には、命令によっても制限することができるという解釈を生んだことに注意すべきである。

⇒要するに名目的な意味だけで、完全な信教の自由は阻害されていた。


【参考】

※明治憲法と信教の自由

1、明治憲法は第28条に信教の自由を定めた。

ここでは「日本臣民は安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限りにおいて信教の自由を有する」として、「安寧秩序」(公共の安全・平和と社会の秩序が保たれること)と「臣民の義務」という制限が伴っていた。

2、条件付ながら信教の自由が保障されたとはいえ、「皇室の信仰」や「国民道徳であり非宗教である神道」に反しない限りという制約のもとであったことは事実である。

明治憲法の臣民の権利条項については、多くの条文に「法律の留保」が付いてあったが信教の自由にはこの条項は付いていなかった。

3、しかし現実の憲法運用は「行政機関が法律の根拠がなくても命令などによって信教の自由を制限できることを意味していると解されていたし、実際の憲法運用もそうであったことである。

⇒つまり

明治憲法の信教の自由条項は法律の留保がある以上に脆弱な規定であったことである。

4、なお「法律の留保」についても、

⇒国民の権利・自由は法律の根拠があれば制限できるという運用がされていたことである。

たとえば、明治憲法制定(明治22年:1889年)や教育勅語発布(明治23年:1890年)以降は、諸宗教、グループ等に対する監督・干渉が常態化していったのである。

⇒この根拠付けは憲法の「法律の留保」条項、刑法上の不敬罪、警察犯処罰令(内務省令)、治安維持法出版法、新聞紙法等が使われた事実である。


2 信教の自由の内容と限界

(一)内容

※信教の自由は次の三つの内容を包含する。

1 信仰の自由

※すなわち、人が何らかの宗教を信仰し、または信仰しないことの自由である。

信仰を有する者に対して、その信仰の告白を強制すること、その信仰に反する行為を強制すること、信仰を有しない者に対して何らかの宗教を信仰するよう強制することなどは許されない。

2 宗教的行為の自由

※すなわち、人がその信仰に基づいて、礼拝・祈祷など、何らかの宗教的行為を行い、または祝典・儀式・行事など、何らかの行為に参加することの自由である。

⇒これらの行為を行い、またはそれらに参加することを強制することは許されないのである。

3 宗教上の結社の自由

※すなわち、信仰を同じくする者が宗教団体を設立し、活動することの自由である。

また、宗教団体は何らかの教義に基づいて設立され、その教義の下に、その広布・普及を目指して活動するものであるから、宗教団体はこの教義なくしては存在し得ず、従って宗教上の結社の自由は、その教義の決定の自由を包含することになる。

※教義の変更を強制するなど、教義の内容に介入することは許されない。

 

※憲法第20条第一項前段が「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」としたのは、右の三つの原則を明示したものであり、その第二項は右の自由を取り出して明記したものである。

⇒そして、この信教の自由を国家と宗教との間の面から保障するものが「政教分離」の原則であり、この原則は第一項後段および第三項の規定において示されている。

※「政教分離」の原則においては後述。


※宗教の意味

1、「信教の自由」は宗教を信仰する自由であるが、憲法第20条は宗教とは何かについて何ら触れられていない。

※宗教学上の宗教の定義は多種多様であるのだが、憲法にいう宗教の定義としては、

津地鎮祭訴訟の控訴審判決において、

憲法でいう宗教とは超人間的本質(すなわち絶対者・造物主・至高の存在等、なかんずく神・仏・霊など)の存在を確信して、畏敬崇拝する心情と行為をいうのであり、個人的宗教たると集団的宗教たると、はたまた発生的に自然的宗教たると、創唱的宗教たるとを問わずに、すべてこれらを包含するものと解するを相当とする」と言っている。

2、この定義は宗教を広く包括的に捉えたものであるが、

人の信仰の対象は性質上、千差万別であり、結局は人が宗教と信ずるものが宗教であり、憲法はその信仰の自由を保障しようとするもの」であることからいって、憲法にいう宗教は広く包括的に捉えるべきであり、この判決の定義は正当であるとされる。


(二)限 界

1、信仰の自由の保障は、その内心の自由としての性質上、思想・良心の自由と同様に絶対的な保障であり、信仰の故のみを理由としてはいかなる制約をも受けない。

⇒このことはその信仰の内容がどのようなもんであるかを問わないのである。

2、すなわち、仮にその宗教がいわゆる邪教というべきものであっても、それを信仰すること自体は自由であり、その信仰を禁止することは許されない。

⇒しかし、信仰に基づき、あるいは信仰に伴って何らかの外部的な宗教的行為がなされる場合には、その行為も原則としては自由であるが、その行為が他人の権利・自由に対して何らかの害悪を及ぼし、犯罪を構成する場合などにおいて、刑罰法規の適用を受けるなど一定の制約を受けることがあるのは当然である。


【判例】

 ※「加持祈祷行為による傷害致死事件」

1、この事件は精神病患者の近親者から依頼を受け、患者に対し線香護摩による加持祈祷を施し、線香の火を体に押し付けたり、身体を殴打するなどの結果、患者を死に至らしめた事件である。

2、被告人たる施術者はこれを信仰に基づく宗教的行為であり、正当業務行為として違法性を免れると主張したが、

最高裁昭和38・5・15判決は、

信教の自由も憲法第12条・第13条の「公共の福祉」の制約を受け、絶対無制限ではないとし、本件行為は「他人の生命・身体等に危害を及ぼす違法な有形力の行使に当たるものであり、これにより被害者を死に致したのである以上、著しく反社会的なもの」であり、信教の自由の限界を逸脱している」とし、刑法の傷害致死罪の規定の適用を認めている。

3、この判決の結論は、本件に関する限り、もとより正当である。

ただし、この判決のように信教の自由に対する制約を「公共の福祉」による制約と考えることも可能であるが、信教の自由の性質上「公共の福祉」による制約も、できる限り最小限度に限定されるべきであり、

⇒宗教的行為について直ちに「公共の福祉」を理由として制約を加え得るとすることは、明治憲法第28条が信教の自由を「安寧秩序」を妨げない限りにおいて保障されるものとしていたのと同様に、漠然たる「公共の福祉」の名において、信教の自由を制限することともなりかねない懸念があることである。

4、いわば、宗教的行為に対する制約も、その行為によって他人の生命・身体その他の法益が具体的にどのように侵害されたかという観点から検討して、なおかつ、その行為が明らかに犯罪を構成するような場合には刑事責任を免れないと考えるべきであると思われる。


※「牧師のいわゆる牧会活動事件」

1、この事件は、教会牧師が、学園紛争に関連して建造物侵入などの被疑者として警察当局の追及を受けていた高校生ニ名であることを知りつつ、その牧会活動(個人の魂への配慮を通じて社会に奉仕する活動であり、神に対する牧師の宗教上の義務とされている)として、教会に宿泊させ、教誨した行為が犯人隠匿罪に該当するか、牧師の正当業務行為として罪とならないかが争われた事件である。

2、神戸簡裁昭和50・2・20判決は、

宗教的行為たる牧会活動も外形的行為として制約を受ける場合があることは否定できないとした上で、しかし牧会活動と刑罰法規との関係について、牧会活動は「内面的な心の確信」に関係し、刑罰法規は「外面的な力」に関係するものであり、両者は相互に侵すことのできない領域を有し、またいずれかが他方に優越するものではなく、従って前者が後者に抵触するときは常に後者が前者を優越し、前者が違法性を帯びるものと解することは正当ではないとし、両者の順位を決するには具体的事情に応じて社会的・大局的な比較衡量によるべきであるが、宗教的行為の自由が基本的人権として保障されている以上、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対して最大限の考慮を払わなければならない」とした。

3、そして、本件の場合、その高校生ニ名は、牧師の教誨によって反省し、後に警察に任意に出頭し、捜査に及ぼした支障も小さかったことを考えれば、この牧師の牧会活動が宗教的行為の限界を明らかに逸脱したものとは解することはでないのである。

⇒そして、牧師の行為は正当業務行為であり、罪とならないとした。


※「奈良県文化観光税条例事件」

1、この事件は、奈良県が条例により県内の慣行施設整備費にあてるため、東大寺および法隆寺に拝観料を払って入場・参詣する者に文化観光税を課すこととしたのに対し、東大寺が、東大寺の公開は宗教的な布教活動であり、入場者の参詣も宗教的行為であるから、入場料への課税は両者の信教の自由の侵害であるとして争った事件である。

2、奈良県地裁昭和43・7・17判決は、

東大寺に入場する者の圧倒的多数は観光者であり、その実態は通常の文化観光と大差はないこと、拝観料は礼拝の対価ではなく、文化財鑑賞のための入場の対価であり、本税はその入場行為に対する課税であることなどからいって、本条例は宗教を対象としてこれを規制するものとは認められず、違憲ではない」と判示した。

3、信仰・宗教的行為そのものや宗教団体の宗教活動そのものを課税対象とする立法や、それらを制約する結果となる立法は、結果的に信教の自由を侵すものであるが、

本税は担税力を示すものとしての入場行為に対する課税と見るべきもの」であるから、この判決は正当であると思われる。


かいひろし法律の部屋

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