憲法論文を書いてみた 2日目

信教の自由

マスター問題6より。

問題の記載は省略します。

(参考問題ではエホバの証人事件の内容を変えて、柔道の履修としています)

1 本問では、C(校長)の本件処分はA(学生)の信教の自由を不当に制約していると いえるか。

CがAに不利益処分を課すことにより柔道を強制することは、Aが信仰する宗教の教養を貫くという宗教的行為の自由を制約するためにおいて問題となる。 


思うに、宗教的行為も外部的な行為として他者の法益と衝突しえるため、公共の福祉(13条規定)による制約は受けることになると考える。 

もっとも、宗教的行為は内心的な活動である信仰と深く関わり、信仰の自由は絶対的に保障されなければならないことを考えると、宗教的行為の自由に対する制約の可否は厳格な審査基準によるべきと思われる。 

宗教的行為に対する制約の合憲となるのは、 

①制約をどうしても必要とされる世俗的な目的に奉仕する場合で、かつ 

②その目的を達成するのに代替的選択肢のない唯一の手段である場合に限られる。 

本問における、体育科目の履修は重要な世俗的目的に奉仕するといえるが、学校側からとすれば、レポート等の代替え措置をとることにより、体育科目の履修と同等の教育目的を達することができるのであり、本問の柔道実技の履修強制は唯一の手段であるということはできない。 

 

2 もっとも、代替え措置をとることは、Aの信仰する宗教を理由に特別措置を認めることとなるので、政教分離原則(20条3項)に反するか。

代替え措置の採用が政教分離原則に反するとすれば、柔道実技の履修強制が教育目的を達成する唯一の手段といえるため、政教分離原則をどの程度厳格に捉えるかと関連して問題となる。 


20条1項後段、3項、および89条は、政教分離原則を定めているが、政教分離とは、いわば国家の非宗教性、宗教的中立性を規定する原則である。 

もともと宗教は絶対的な価値を持つのが一般的であり、これが政治と結びつくと民主主義の基盤を危うくしかねない。

さらに、宗教が権力とつながると、宗教自体が堕落してしまい、精神的自由としての価値を失う可能性もあるのである。 

一方では、政府が宗教と結びつくことによって、個人の信教の自由が危うくなるという可能性もあり、明治憲法下の日本で、国家神道が事実上の国教と扱われる中、他の宗教に対する迫害が行われたという認識の下で、その反省から、現行憲法は、アメリカ的な政教分離原則を規定したという側面もみられる。 

このように 

(1)政府を破壊から救い、宗教を堕落から免れさせること 

(2)国家の宗教的中立性を確保して、より良き民主主義を確立させること 

(3)個人の信教の自由を絶対的に確保すること といった目的のために、

政教分離が規定されていると思うのである。  


この点判例は、福祉国家のもとで国家が宗教に一切介入しないということは実際上不可能であることから、政教分離原則を緩やかに解している部分もある。 

このように考えるとすれば、代替え措置の採用は政教分離原則に反することは少ないといわざる負えない。  

しかし、現在の憲法は旧憲法下の経験を踏まえた(前述の意味)厳格な政教分離を規定したものと考えることができる。 

つまり、当該行為が 

①世俗目的を持ち、

 ②その主要な効果が宗教を促進し抑止するものではなく、 

③政府と宗教との過度の関わりあいを促すものではない この三つの要素をすべて満たさない限り、政教分離原則に反すると考える。 

(目的効果基準参照:レモンテスト) 


※これを本問に当てはめると、代替え措置の採用は、 ②と③の要件は問題なく満たすのであるが、①との関係では、宗教を理由とする代替え措置が宗教的な意義をもつことは否定できないので、政教分離原則には反する結果がみちびかれるのである。 

しかし、本問で問題となる意味は、政教分離の中でも特に公平な利益供与の場面であるので、あまりに厳格な分離は要求されないとも考えることもできる。 

さらに、そもそも、政教分離は信教の自由を確保するための制度であり、目的効果基準も信教の自由に配慮しつつ適用されるべきと考えることが重要となる。 

となれば、信教の自由に配慮して、①の要件も充足しているとして、代替え措置をとることは政教分離に反しないと考えることができる。 

したがって、本問のCの処分は教育目的達成の上で唯一のものとはいえないのである。 

以上の論点により、本問におけるCの処分はAの信教の自由を不当に侵害している点において違憲ということができるのである。

かいひろし法律の部屋

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