憲法のお勉強35

第八章 精神的自由権

三 学問の自由(重要出題B)


1、学問の自由について、憲法上明文で特に保障するのは稀である。

⇒イギリスやアメリカでは思想・良心の自由や表現の自由の保障の中に学問的活動の自由が含まれていると考えていたことがうかがわれる。

2、これに対して、ドイツでは早くから学問の自由の概念が発達。

⇒近代ドイツは国力増強のために学問育成に力をそそぎ、大学教授は政治的中立を保つ代わりに特権として学問の自由を認められる。

※1810年にベルリン大学が創設するときには大学の自治も確立、以後憲法で学問の自由が保障される。

3、一方日本では、大日本帝国憲法においては学問の自由の規定が存在しなかった。

⇒だが、滝川事件や天皇機関説事件などで学問の自由が国家権力によって直接に侵害された経過をたどり、新憲法制定の際に明文規定が必要とされたと考えられる。

※マッカーサー草案の“academic freedom”に「学問ノ自由」の訳を選び、それが現在の憲法23条の根本となっている。

4、「学問の自由」はドイツ法学の流れを受け、「大学の自由」と同様の意義と考えられるのだが、

⇒ただし今日の日本では、広く一般国民を含めて学問的活動の自由を保障していると解されている。

5、またオランダでは教育の自由が特に実践され、オランダの文部省では学校設立の自由、教える自由、教育を組織する自由という三つの自由の枠で説明している。

⇒オランダの場合は、社会階級の差異よりもカトリックとプロテスタント、自由主義と社会主義などの思想信条の対立などが政治的争点になってきたという歴史的経緯がみられる。

1 学問の自由の内容

1、憲法第23条は学問の自由を保障する旨を明文にて規定している。

⇒この内容について、通説では研究の自由、研究発表の自由、教授の自由を指すと考えられる。

※これが為に、大学に対しては学習指導要領の適用はなく、また大学対象の規程も存在しない(そもそも大学は「学習」をする機関ではない)。

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大学=どうも古典の大学・中庸のほうが頭にある。

大学之書、古之大学、所以教人之法也。

何を言わんとしているか。

大学の書は、古(いにしえ)の大学、人を教うる所以(ゆえん)の法なり。

この『大学』という書物は、古代の大学校において、人を教育する時の規範(大いなる方針)を示したものである。と言っていること。

※どうも現代に人々は大事な教えを忘れがちだ。

時の規範、その時節に大事な言葉が人を変える根本になるというのである。

滅びから免れるためにである。

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※研究の自由

・真理の追究・発見を目的とする思考活動は学問の根幹である。

このような内心における精神活動は思想の自由の一部でもあり、公権力や所属機関など外部からの干渉は許されない。

⇒調査や実験など、研究を遂行するために外面的行為として現れる諸活動の自由も原則として保障される。


※ただし生体実験など明らかに人倫に外れるような行為まで許されるわけではない。

また近年の科学技術の発達に伴って、医学や兵器研究などで人間の生存や尊厳をおびやかす可能性がある研究への対応も問題であるといえる。

※人間の思考は、善でなければならず悪ではそれを嫌う神の厳罰の対象となる。

 今大事なことは、日本人がその思考の意味で世界の意識を変えること。

 そうでなければ、世は危険にさらされている事実が大問題なのである。


※研究発表の自由

・研究の成果は発表されることによって初めて価値を持つものが大多数だと言える。

⇒したがって研究発表の自由も当然に認められる。

※なお発表されるものに関して学問と非学問の区別をどこで行うか、あるいは区別が必要かどうかは学説が分かれる。


※教授の自由

・講義の内容・方法に関する自由である。研究発表の自由の一形態と取ることも可能である。

⇒「学問の自由」が「大学の自由」と同義に解されてきた意味合いから、旧来「大学における」講義の自由であると考えられている。

※初等および中等教育機関における教育の自由がこれに含まれるかどうかについてはこれまで激しく議論されている。

※この点について、

最高裁は「例えば教師が公権力によって特定の意見のみを教授することを強制されないという意味において、また、子どもの教育が教師と子どもとの間の直接の人格的接触を通じ、その個性に応じて行われなければならないという本質的要請に照らし、教授の具体的内容及び方法につきある程度自由な裁量が認められなければならないという意味においては、

一定の範囲における教授の自由が保障されるべきことを肯定できないではない」としつつ、児童・生徒には十分な批判能力が備わっていないこと、教育の機会均等を図る上で全国的に一定の水準が求められることから「普通教育における教師に完全な教授の自由を認めることは、とうてい許されない」と判示している。

(旭川学力テスト事件、1976年判決)


2 学問の自由の保障の意味

(1)憲法二三条は、まず国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許されないことを法的に規定している。

⇒とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によって干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請されることである。

※時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。

⇒「学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探求のためのものであるとの推定が働く」と解すべきと思われる。


(2)第二に、憲法二三条は、学問の自由の実質的裏づけとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを法的に規定している。

⇒すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた政治的干渉から保護されなければならない。

※この意味において、教育の自主・独立について定める教育基本法(一〇条参照)はとくに重要な意味であると考えられる。


※先端科学技術と研究の自由

1、先端科学技術の研究がもたらす重大な脅威・危険に対処するためには、今までのように、研究の自由を思想良心の自由と同質のものという側面だけで捉えることが非常に難しくなってきていると考えることもできる。

⇒現実に、研究者や研究機関の自制に委ねるだけでは足りず、研究の自由と対立する人権もしくは重要な法的利益(プライバシーの権利および生命・健康に対する権利)を保護するのに不可欠な、必要最小限度の規律を法律によって課すことも、許されるのではないか、という意見が有力視されている。

※考えてみれば、神の律法の言葉の内容は本来人間があるべき姿である。

どうもその善の方向性を忘れて、人間は大事な思考から外れている。


3 大学の自治

・日本国憲法において、大学自治に関する明文規定は存在しない。

⇒しかし大学における研究・教育の自主独立を守るためには大学の自治は必要不可欠なものとされ、学問の自由の一部にあげることができる。

※すなわち権利としての学問の自由を保障するための制度的保障として大学の自治は一般に位置づけられているのである。

・大学の自治の観念は、パリ大学など中世のヨーロッパの伝統に由来。

※大学の自治の内容としてとくに重要

学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。

ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力とされる。


(A)人事の自治

・人事の自治学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基づいてなされる。

⇒政府ないし文部省による大学の人事への干渉は、その意味を考えれば許されない。

(参考)

※1962年に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるものであった。しかし、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を受け挫折している。


(B)施設・学生の管理の自治

・大学に自治が認められるとしても無制限ではない。

⇒その保障にやはり限界が存在する。

※例えば、誰を教授として採用するかなどの学内の人権は国家の影響を受けることなく大学独自で決定できるとされるが、施設や学生の管理に関してはどうかということがうかがえる。 警察権との関係で問題になってくることも考えられる。

次に掲げる意味合いもこの項目を学ぶ上で焦点となる。


※犯罪捜査のための大学構内への立ち入り

・大学の自治が認められるとしても、治外法権ではない。その意味において、正式な令状があれば強制捜査も大学の自治を侵害したとは言えないことになる。

(刑法以下にかかわる問題である)

⇒もっとも、強制捜査の名を借りた公安活動がなされないとも言い難い、大学関係者立会いの下で強制捜査はなされることも考えられるからである。


※大学構内の秩序回復のための活動

・基本的に、大学内に警察が立ち入ることは、大学の自治を脅かすおそれを帯びている。

⇒大学構内の秩序回復のために警察が介入する場合は、 大学側の自主的な判断に委ねられるべきであり、例外が許されるのは、真に緊急を要する場合のみと考えられる。


※大学構内における警備活動

・公安活動は、将来起こるかもしれない犯罪の危険を見越して行われる警備活動である。

⇒これを大学構内で行われるのは、 大学の自治を侵害するおそれが大きい行為と言え、特に私服警官が大学構内で公安活動をするのは許されないと考えられる。


※大学の自治と学生の立場

・大学の自治の主たる担い手は教授その他の研究者であるのだが、学生も自治の主体となるかどうかは学説上議論がある。

⇒伝統的な考え方では学生はもっぱら営造物利用者として認識されていたことである。

※しかし東大紛争などをきっかけにして、学生も自治に参加すべきだとする意見が広がり、学説が見直されることになる。

・ただ学生は教授・研究者とは地位や役割が異なる意味から、自治における役割は通常限定的と考えられ、管理運営にどこまで関わるかは各大学が法律の範囲内で自主的に定めるのが望ましいと考えることが可能である。


※東大ポポロ事件

・大学の自由についての判例は、東大ポポロ劇団事件に関する判決がある。

(事案)

※学生の演劇団体たるポポロ劇団が、大学当局の許可を得て学内において公演を行った際に、警察官が立入り、且つその警察官が当日のみならず常時学内に立入り特定の教授や学生の行動を調査していたことが判明したため、学生がその警察官を摘発し暴行を加えたことが暴行罪として起訴されたが、学生側は警察官の立入りを大学の自治を侵害するものとして争った事件である。

(第一審)

・ともに学問の自由・大学の自治は学内秩序維持の自治を包含するとし、この事件において、警察官が大学の要請に基づくことなく、大学構内におけるポポロ劇団公演の集会に立ち入ったことを違法であるとし、学生の行為は大学の自由・自治に対する侵害行為を防衛するための正当行為であるとして、無罪とした。

・すなわち東京高裁の判決は、憲法第23条により大学の自治の原則は明確に公認されたとし、次のように述べている。

※「この原則によれば、大学は、学長の公務管掌権限を中心として、その大学内における研究及び教育上の有形無形の諸点につき、教職員及び学生の真理探究または人間育成の目標に向い、一定の規則に従って自治活動をなすことが認められ、

同時に外部との関係においては、政治的または警察的権力は治安維持などの名の下に無制限に大学構内における諸事態に対し発動することは許されず、たとえ客観的には警察的活動の対象となるがごとき外観の事実ある場合にも、それが大学構内殊に教室や研究室内におけるものなる場合には、

事情の許す限り、まず大学当局自らの監護と指導とに委ねて解決を図り、同当局の処理に堪えずまたは極めて不適当なものとして同当局より要請ある場合、はじめて警察当局が大学当局指定の学内の場所に出動することを妨げずとなすことは、わが国における大学自治の実態として公知の事実である。

・これは、もししからずして、警察当局において、警察活動の対象事実が存在する限り大学内にも随時随所に警察権を発動しうるものとすれば、大学の生命的任務たる学問及び教育事業は実際上警察権の下に屈従を余儀なくされ、到底その自由と公正との保持が不可能となるがごとき場合の出現が虞れられる結果、自然熟成された観念である。」

※これに対し、最高裁昭和38・5・22判決は、

⇒原判決を破棄し、差戻した。


※最高裁の要点

① 大学における学問の自由を保障するために、伝統的に、特に教授その他の研究者の人事に関する自治が認められている。

② 大学の施設および学生に対する管理についても、ある程度において大学に自主的な秩序維持の権能が認められている。

③ ただし、大学の学問の自由と自治は、大学の本質に基づき、直接には教授その他の研究者の研究、その発表の自由とそのための自治を意味するのであるから、大学における学生の集会も、右の範囲において認められるものである。すなわち、学生の集会が真に学問的な研究および発表のためのものでなく、政治的・社会活動に当たる場合は、大学の有する特別の学問の自由と自治による保護を受けることはできない。

④ 本件集会は、真に学問的な研究と発表のためのものではなく、政治的活動と見るべきものである。従って、その集会に警察官が入ったことは、大学の学問の自由と自治を侵すものではない。

 

※この最高裁判所の判決に対しては次のような疑問が提示されている。

① 大学における学問の自由を、このように教授その他研究者の側の研究の自由に限定していることは狭すぎはしないか。第一審判決は、大学の自由を「教授・研究者・学生の学問研究活動一般の自由」として捉えていた。

② 学問的研究と政治的・社会的活動とを、このように判然と区別することは可能か。特に学問的研究であるかどうかの認定を警察権の判断に委ねることは正当ではない。

③ 第二審判決は、この事件を単に当日の事件としてのみ捉えるのではなく、警察官が常時大学構内に立ち入っていたことを問題とし、大学の生命的任務たる学問および教育が警察権の下に屈従を余儀なくされることの危険を指摘しているが、この最高裁判決はこの点について検討が欠けているのではないか。

※学問の自由の解釈については最高裁の判決に従い、本件集会は学問の自由の範囲外であるとしながら、この集会への警察官の立入りは、憲法第21条の集会の自由を侵すものであるとし、ただし、その警察官に対する学生の暴行は暴力行為に該当するとした。これに対する上告審判決は、上告を棄却している。

※この東大ポポロ事件は、昭和25年7月、東京都公安条例が施行され、集会・デモ行進は公安委員会の許可を要することが定められるにあたり、同条例の大学内の集会・デモ行進への適用に関して発せられていた当時の文部事務次官通達が問題とされた事件であったことである。

※すなわち、この通達は、

①学内における教職員・学生・団体が大学当局の許可を得て、特定の者を対象として行う学内集会は許可申請を要しないこと。

②学内における集会・デモ行進の取締りは大学当局が措置することを建前とし、警察は大学当局の要請があった場合にのみ協力すること、としていた。

⇒この事件は、当日の集会に、大学当局の要請がなかったにもかかわらず警察官が立入り、また当日以外にも常時立ち入っていたことが大学の自治を侵したものとして争われたのである。

※しかし、この事件以後、昭和44年4月、前述の昭和25年の文部事務次官通達に代わる新たな文部事務次官通達が発せられたことが注目されることである。

それの内容等に関しては参考書等読んで、考察して学ぶことをお勧めする。


かいひろし法律の部屋

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