初の成文法

子産、「公孫僑」とも呼ばれる。

史上初の成文法を作った尊敬できる人。

紀元前536年、中国史上初めて成文法を制定した。

『春秋左氏伝』によれば、「参辟」という法律を定めて鼎(青銅器)に鋳込んだ、という。

この法律の具体的内容についてはくわしく伝わってはいない。

成文法を作ったことに関しては、その意味を悟らない各国から批判が相次いだといわれる。中でも晋の賢臣と言われる羊舌肸(ようぜつきつ)(叔向)からは「(そうやって法律を定めては)あなたが生きている間は良いのですが、あなたが死んだ後のことはどうなるのですか。

滅んだ国には法律が多いと言いますが、まさしくそれに当てはまるのではないのですか。」と言われ、子産はこれに答えて「確かにあなたの仰るとおりですが、私は不才ですので生きている間の事を考えるのが精一杯で、子孫達のことまでは考えてやれません。」と答えたといわれる。

「生きているうち間が精一杯」、心に染みいる言葉である。

なぜこの子産の行動が批判されたかといえば、儒教的・あるいは老荘的な考え方からすると、法律を多くして民を縛るのは、当時の世情から亡国の証だという認識があったからである。

儒教の観点から言えば、「本来は統治者の徳によって民を治めるべきであるのに、法律を多くして法を持って民を治めようとすれば民は統治者に親しみを感じなくなり、生業をまじめにやらなくなってしまう。」となるのである。

老荘的考え方からみようとすれば、「法をもって民を治めようとすれば、民はその法に従うのではなく、法の網目をかいくぐって自分の利益になるように図るだろう。」となる。

要するに、己の利ばかりを考える悪が生まれることになる。

このような統治方法の錯誤と言う観点からの批判と考えられるのである。

また身分秩序の観点から見るべき意味がある。当時は宗族制度と呼ばれるシステムの中で民衆はひたすら生業に励み、統治者はその民衆を安楽にするために政治を執ると考え、下が上に、上が下にそれぞれ変わろうとする事は良くないことと考えられていた。

であるから法律を下の者が知るのは身分秩序を乱す元となると考えた故の批判とも考えられるということ。

ではなぜ子産が成文法を作ったかと言えば、すでに宗族制度の中枢にあるべき周王室が衰退して久しく、既に制度自体が機能しなくなっていたと云う事実がある。

そのような状況下で法体系を大きく変えなければ、下の者の不満を抑えきれない状況が作られていたからだろう。

上述のように士の階級の台頭を力で押さえ込もうとしたが、それだけ下の力が強くなっていたということの証拠であり、いわば飴と鞭の世界である。

その証拠に、鄭に続いて叔向亡き後の晋が、やはり成文法を制定している。

このことは孔子(宗族制度の擁護者であり、礼は士大夫、刑罰は庶民に対するものであると考えていた)に大きな衝撃と困惑を与えたといわれているという。

子産は紀元前522年、死去。宰相の地位にあること21年であった。

臨終に当たって後継者に任命した子大叔(游吉。子游の孫)に、

「寛容な態度で治めるのは徳を持った人間だけが可能です。次善は厳しい態度で治めるやり方です。あなたは次善の方法で治めるのが良いでしょう。例えば火は恐ろしいですが、その恐ろしさゆえに人が近づいてこないので、却って焼死する人は少ないのです。しかし水は柔らかなので人は慣れ親しんで近寄り、大勢の人が溺死します。これと同じように寛容な態度で治めるのは難しいのです。」と遺言したという。

今日の世の中、子産ような人々は必要である。

※これは、以前アメーバで記されたものです。

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